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「百姓としての誇り」

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「愛農」誌(1998年)巻頭言の第5弾は、クリスチャン詩人の八木重吉。私は小学校高学年から教会の日曜学校に通うようになり、小学6年の時のクリスマスに洗礼を受けてクリスチャンになった。中高生の頃までは、キリスト教ほどすばらしいものはないと信じていたし、遠藤周作や三浦綾子の小説に共感し、八木重吉の詩にも共鳴した。多くの人にキリストを知ってもらいたいという、福音的信仰を持っていた。しかし、大学に入ってからキリスト教に対する見方はだいぶ変わり、今の自分は、あの頃のような信仰を持っていない。というよりも、そういう福音的信仰というものを嫌うようにさえなった。あの頃の純粋だった自分を、少々恥ずかしく思ったりもするのだ。クリスチャンにも色々な人がいることを知ってしまったからかもしれない。というより、クリスチャンにありがちな選民意識というものに、嫌気がさしてしまったと言った方がよいかもしれない。自分はイエスという人物に惚れてしまったし、今でも彼のような信仰を持ちたいと強く願っているが、キリスト教を他人に薦めようという気は全くなくなってしまった。
 イエスという男も、権力をふりかざす連中のことが大嫌いで、政治家や宗教家などまっぴらごめん、さげすまれた人たちと一緒に飲み食いするのが生きがいだった、百姓のせがれに過ぎないのだ。イエスの父ヨセフは大工ということになっているが、まあ百姓と考えて間違いがない。イエスは本当にキリストなのか? ただの正直者で、不正が大嫌いな男に過ぎないのではないか。彼をキリストと信じることが、本当に救いになるのかどうか、今では全く確信が持てないでいる。そんなことより、百姓として生きることこそが、神の望まれていることであるということには、ますます確信が持てるようになってきた、この頃の自分なのである。もっとも、神が存在するかどうかには、全く確信がもてない。というより信じたい人は信じればよいし、信じたくない人は信じない方がよいと思う。私は、信じているけれど、その方が自分が幸せに生きられると思うからであって、そう思わない人には信じる必要がないだろう。

「百姓としての誇り」

なぜわたしは 民衆をうたわないか
わたしのおやじは百姓である
わたしは百姓のせがれである
白い手をしてかるがるしく
民衆をうたうことの冒涜(ぼうとく)をつよくかんずる
神をうたうがごとく
民衆をうたいうる日がきたなら
その日こそ
ひざまずいてれいかんにみちびかれてものを書こう
  (八木重吉詩稿より)


百姓という言葉は、水呑百姓とか、三反百姓、どん百姓にいたるまで、あまりよい使われ方をしない。というよりも、さげすみを含んだ、差別的な呼称として用いられてきたといってもよい。でも、愛農会は誇りをもって宣言している。

百姓は自立する
  百姓は生命を守り育む
    百姓は金にしばられない
     百姓は大地の恵みに生きる
      百姓は世界をつなぐ心となる

 なんとすばらしい言葉であろう。現代日本の暗い世相をもたらした原因は、多くの人が百姓=民衆としての生き方を失ったことにあることを思い知らされる。歴史上において常に百姓=民衆は、汗と血をにじませて大地を耕しながら、搾取され窮乏を強いられてきた。しかし、神は常にそのような民衆の側に立ち、彼らこそ幸いな者であると祝福する。それは、搾取や窮乏の現実を肯定しているのではない。彼らの生き方こそが、神の前に正しいものであると肯定しているのである。逆に、富んでいる者、つまり搾取する側の人間を、神の国にふさわしくない者として断罪する。豊かになるためといって、心や生命を犠牲にしては、何にもならないではないか。

 だから、我々は百姓であることをもっと誇るべきである。私の住む北海道の余市は、後志(しりべし)という地域にあり、数年前に有機農業をおこなう仲間で「しりべしなんでも百姓くらぶ」というグループをつくり、無農薬野菜市や、ファーマーズ・チャリティー・コンサートといったイベント活動をおこなってきた。新規就農者が中心の、ごくごく小さい集まりであるけれども、これからも百姓であることにこだわり、地の塩でありたいものだ。

 
(「愛農」1998年10月号)

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