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復活日(Easter)

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昨日はイースター(復活日)でしたイメージ 1。小樽聖公会(英国教会系、カトリックとプロテスタントとの中間的宗派)の礼拝に,クリスマス以来の出席でした。イエス=キリストが十字架にかけられ殺されて(聖金曜日)三日目に復活したことを祝う祝日ですが、クリスマスが12月25日(ロシア正教会=オーソドックスでは1月7日)に祝うのと違い、毎年日付は異なるものの(早い時は3月です)必ず日曜日です。クリスマスもイースターもこの季節である根拠は聖書にはなく、クリスマスは冬至のお祭り、イースターは長い冬を経た春のお祭りという季節の行事が、キリストの誕生と復活の祝日にとって変わったものです。仏教の花祭りみたいなものですね。絵を描いた卵を配るのも、ヨーロッパの伝統で聖書とは関係ありません。

ミサ(聖餐式)ではパン(ウエハース)とぶどう酒をキリストの肉と血の象徴としていただきますが、これは洗礼を受けた者だけが与ることのできる儀式です。礼拝後の愛餐会(昼食会)の時には、信者以外のすべての人とも一緒に食事をいただくことができるので、こちらの方がどんな人とも一緒に食事をしたイエスの生き方にふさわしいと思います。赤飯と豚汁+沢庵というところも、いかにも日本的で好ましいです。乾杯に、えこふぁーむのぶどうジュースもいただきました。余興でヴァイオリンも弾きました。聖歌のオルガン伴奏も。祝会のあとは、小樽管弦楽団の練習(5月3日マリンホールで本番)に遅れて参加(小樽市文学館・美術館の地下にある練習室)しました。イメージ 2

石坂みゑ子司祭の復活日説教では、この日読まれた旧約聖書(出エジプト記)と新約聖書(マタイによる福音書)から、救い主キリストを支えた女性が皆マリアという名前であったことを教えていただきました。この日の聖書に出てきたマリアは3人です。
新約聖書は、十字架で磔にされ殺されたイエスという男が、人類すべての救い主キリストであったということを証する書物なわけですが、12人の男の弟子たちはイエスが神を冒涜したという罪で捕らえられた時に、てんでばらばらに逃げ隠れてしまったわけです。このままではイエスと共に彼の教えも葬り去られるところでしたが、最初に復活したイエスに会ったのは、イエスを陰
イメージ 3で支えていたマグダラのマリアともう一人のマリア(イエスの母)でした。いざという時にたよりになるのが、男ではなく女性なわけですね。
そして、旧約聖書でエジプトの奴隷であったユダヤの民を、約束の地であるカナン(イスラエル)に救い出したモーセ(モーセも、油注がれた者=キリストと称される人物です)も、エジプト脱出の困難の中で、まだ奴隷であったときの方がよかったと男たちからは疑いをかけられますが、彼を支え脱出行を成功させたのはユダヤ最初の女預言者ミリアム(マリアのヘブライ語読み)でした。そのミリアムは、モーセの実の姉でした。彼が生まれて間もない時、エジプト王がユダヤ人が増えることを恐れユダヤ人の乳児虐殺を命じました。モーセの母は、幼子モーセが殺されないようにとパピルスのかごに入れてナイル川に流し、その赤子を偶然見つけた王女に「乳母を捜してきましょうか」と言って、機転をきかせ実の母を連れてきて救った賢い女性がミリアムで、モーセも最初はエジプトの王子として育てられたのです。
イエスが生まれた時も、ユダヤの王ヘロデがユダヤ人の王が生まれたという噂を聞いて自らの地位を奪われることを恐れて幼児虐殺を銘じ、母マリアは天使のおつげを聞いて、機転をきかせてエジプトに逃れてその命を救ったのです。マリア(ミリアム)という女性がいなければ、ユダヤの民を救ったモーセも、すべての人の救い主であるイエスも、その存在さえなかったというわけです。

まあ、色々と作り話もあるのでしょうが、聖書というのはなかなか面白い書物ではあります。これを一字一句真に受ければ、荒唐無稽で矛盾したことも山ほどありますが、史実をそのまま書いているのではないし、数世紀にわたっている聖書の著者によって言わんとしていることもてんでばらばらなのですが、そこに一貫した真理というものを読みとることが可能であると思います。それは、神は虐げられた者を救い出す存在であるということです。その神を信じるかどうかですが、その神を信じる者が、最後には救われるということを言っているわけですね・・・ イエスという男は、そのことを徹底した者であったということです。

イエスを神の子としているのは、まあ作り話でしょう。誕生物語しかり。復活物語もしかり。しかし、イエスという男が、虐げられた者と歩み病を癒し、権力を嫌い不正と戦い、最期には最も残酷な十字架刑に処せられても、その信念を曲げることはなかったということだけは、まぎれもない事実です。私は、そういう男を神の子と呼び、復活を信じることによって成立したキリスト教の精神というものに共感するのであって、聖書に書いてあることを一字一句信じているのではありません。 

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