昨日は、映画「オケ老人」を見に行ったが、思ってた以上に楽しめた。とにかく笑えたし、とても共感できた。最初のへたくそさと、本番の上手さのギャップがあり過ぎだと思ったが、そういえば我々のオケでも似たりよったりだということに気付いた。アマオケのいいところ(楽しいところ)は、やっぱり本番よりも、練習過程だ
北海道農民管弦楽団の第23回定期公演は、来年1月22日に十勝の音更町で開催するのであるが、音更町で少年期を過ごした日本を代表する作曲家・故伊福部昭氏の代表作2曲の他に、音更町図書館長時代に伊福部昭音楽資料室を同館に作った青山昌弘氏の大作(ピアノ協奏曲「産土(うぶすな)の始め~一握の土1897年」)を初演する。今日は、映画「オケ老人」を見た翌日だったが、3回目の練習にして初めてこのピアノ協奏曲を最初から最後まで音にすることができて(まだピアノとは合わせていないし欠けているパートも多かったけれど)、「オケ老人」の梅響が練習で曲が最後まで通って大喜びするのを思い出して笑ってしまった。梅響もコンサートで取り上げていたドヴォルザークの「新世界交響曲」も、今期初めて通して練習したので、伊福部作品は全部やる時間がなくなってしまったけれど、伊福部作品は我々が何となく生まれつき身についているような音楽をそのままやればよいので、意外とそんなに難しくないのである(笑)
北海道農民管弦楽団として、この音更町が生んだ両氏の作品を演奏するということは、私としてはこれまで全く存じ上げなかった青山氏から初演の依頼を受けるまでは全く想定外だったことであるが、これは運命のようなことでもあり、実は必然であったのではないか。今となっては、このオーケストラとしてはどうしてもやらなくてはいけないことであったという思いに駆られている。
伊福部昭氏は、私にとっては、北海道大学農学部の大先輩であり、北大オーケストラのコンサートマスターの先輩でもあり、作曲家(と私が名乗るのはおこがましいけれど)の先輩でもある。私自身、西欧の古典音楽を演奏するだけではどうしても飽き足らず、自分でこのオーケストラのために作曲をして定期演奏会でも何度か演奏してきたのだが、西洋近代の管弦楽曲に強い影響を受けながら、北海道の大地に根差した音楽にこだわり続けた伊福部氏の音楽を、なぜ今まで演奏して来なかったのだろうか。
今回取り上げる交響譚詩とSF交響ファンタジー第1番「ゴジラ」であるが、前者は太平洋戦争まっただ中の1943年の作、後者は1954年公開の映画「ゴジラ」のテーマ音楽を中心にその後の怪獣特撮映画音楽をつなぎ合わせて1983年に作曲されたものである。今回取り上げるこの2曲には実は共通したテーマがある。それは核=放射能に対する恐怖と、そのような核技術を人間の欲望によって戦争に用いることに対する強い反感である。
以前このFBでも、伊福部昭氏とゴジラとの共通点は、戦争による放射能の被害者であるということを述べた。木材に関する物理が学生時代からの専門であった伊福部昭氏は戦時中、札幌にあった宮内省林野局の林業試験場において戦闘機用に木材に放射能を当てて強化する試験を防護服を身に付けずに行い(金属より強くレーダーに捕捉されない木材の生産を目指した)、放射能による障害で喀血して倒れ、敗戦後の1年間は療養生活を送ることになる。一方、ゴジラは戦後の水爆実験による放射能を浴びた爬虫類が、奇形巨大化して生まれたという設定のSFである。
しかし、この2名(?)だけではなかった。何と伊福部昭氏の1つ年上の兄・勲氏も、戦時中にやはり放射能による研究(軍事用の蛍光塗料)をさせられ、そして1942年にはその放射線障害によって同様に血を吐いて30歳の若さで亡くなっていたのである。昭氏はヴァイオリンの名手、勲氏はギターの名手として、札幌二中(現在の札幌西高)時代には校内外でも音楽会を開催し兄弟音楽家として知られていた仲の良い兄であった。その若くして死んだ兄の追悼のために書いた曲こそが、この交響譚詩であり、2つの楽章からなるが、第2楽章の方はまさにレクイエムと言える内容になっている。譚詩(バラード)とは舞踊と詩曲とが混然一体となったものということであるが、第1楽章には昭氏が音更時代に出会った様々なアイヌの音楽(音更村長であった父がアイヌに大変慕われていたため、昭氏はアイヌの人たちの音楽を家でもよく聴いたとのこと)、そして第2楽章には同様に音更時代に出会った様々な日本民謡(特に音更神社で演奏されていた神楽はほぼそのまま引用されている。村長宅は音更神社境内にあり、村長として赴任する以前に父は明治政府によってやめさせられるまで1400年続いた因幡国の宇部神社の神主の最後の末裔であった)がモチーフになって作曲されている。たった20分に満たない短い曲であるが、実に多くの歴史と思いがこの音楽に詰まっていることが分かるのである。
そして青山昌弘氏の「産土の始め」は、音更町の開拓農家3代目である氏がその開拓の歴史を、音更町に在住し伊福部昭氏のピアノ作品演奏の第一人者として作曲者本人からも認められ、NYカーネギーホール等でも伊福部作品をリサイタルで弾いている川上敦子氏を独奏者として想定したピアノ協奏曲として音楽に綴ったものである。
青山氏は伊福部氏の直接の弟子ではないそうだが、孫弟子として伊福部氏の作風に通じるところが多々感じられる曲であり、そのダイナミックさは伊福部氏の作品にも全く引けをとらない。
そして、この曲をこの年に演奏するということの何と言う奇遇であろうか。今夏、音更町を含む十勝地方の河川は台風第10号によって各地で氾濫して洪水を引き起こし、日本で最も肥沃で広大な畑作地帯は1割以上も土砂が流出したり泥をかぶり、戦後最悪の甚大なる自然災害を被った。これら被害を受けた農地の復旧には、今後長い年月を要する。
しかし、これとほとんど同様の甚大なる水害は、この音更町に開拓民が入植した明治30年(1897年)の翌年にも発生し、入植2年目の収穫を目前に開墾地の大半が流出し、開拓民は命からがらどうにか高台に避難するという悲運にさらされた。その後も、度重なる水害、冷害などの自然災害との闘い・幾多の苦難の歴史を乗り越えて、ようやく今日の「産土」・郷土が形成されたのである。
そしてその間、1966年に青山氏の祖父母が入植した矢部地区開拓70周年を記念して神社拝殿内部改修工事を機にご神体を開封したところ出て来たものが、開拓民25戸が持ち寄った自作地の「一握りの土塊」と、天地に感謝し明日への決意と希望を述べた縁起書であった。そのような開拓民たちの真摯な姿に思いを馳せて、この曲は作られている。
開拓から1世紀以上を経て、再び開拓翌年と同じような大水害に見舞われた十勝地方であるが、開拓当初の大洪水をものともせず克服し、土を大切にしながら豊かな大地をたゆまぬ努力で作り上げて来た農民の姿を高らかに歌い上げたこの曲が、十勝の農民たちに再び勇気と希望を与えてくれるであろうことを信じている。我々のメンバーにも十勝のメンバーは何人もいて(池田町、芽室町、清水町、中札内村など)、皆多かれ少なかれ自分の畑や作物にも被害を受けているが、皆と一緒に音楽を作り上げることで同様に勇気を得、また来年一層農作業に励むことができ、どんな苦難も乗り越えて行けると信じている。