3月22日(金)~25日(月)にかけて、昨年3月11日と本年1月27日の農民オケ花巻演奏会で共演した金星少年少女オーケストラの第2回演奏会(花巻公演)および釜石公演への賛助出演、それに合わせて開催することにした北海道農民管弦楽団花巻演奏会実行委員会の最終会合のために岩手を旅行しました。昨年3月から数えて5回目の花巻です。
3月22日、朝7時札幌発函館行きのスーパー北斗に乗るためには、余市の
始発列車では間に合わないので、5時15分頃軽トラックで家を出て、冬期間(12/15~3/15)除雪のアルバイトに通っている小樽築港駅に駐車し、ここからJRに乗りました。札幌駅で農民オケ事務局長・ホルン奏者の助乗氏と合流。前日は農民芸術学校に寄贈されたグランドピアノの運搬も手伝っていただき、すっかりお世話になりっぱなしです。函館から新青森まではスーパー白鳥、新青森から盛岡までは新幹線に乗り、盛岡から花巻まで在来線のJR東北線に乗りました。新幹線には新花巻駅もありますが、青森からだと盛岡で乗換えが必要で、接続は非常に悪く、新花巻から花巻も釜石線が通っていますが、本数はわずかですし、かえって時間もお金もかかってしまいます。![イメージ 1]()
花巻駅14時20分到着。花巻市役所まで歩き、賢治没後80年記念イベントということで大変お世話になった、まちづくり賢治課の高橋課長と佐々木係長にご挨拶いたしました。佐々木さんは夜の実行委員会にも参加してくださいました。その後、農民オケ演奏会の記事を第1面いっぱい使って載せてくださった岩手日日新聞の千田さんにご挨拶に伺ったところ、3月1日付けで転勤されていてお会いできませんでした。それから、少し歩いて花巻一賑わっているマルカンデパートの展望食堂で休憩、例の特大ソフトクリーム(150円)をいただきました。
この後、夜の実行委員会まで少々時間があったので、昨年8月と本年1月の公演の時にも寄った花巻農業高校内にある羅須地人協会(賢治先生の家)が元々あった場所(宮沢賢治詩碑がある)まで歩くことにしました。途中、賢治の生家の前を通りましたた。旧街道沿いにあり、賢治の父が質屋を営んでいましたが、賢治の死後は弟の清六さんが商売替えをしてここに住みました。太平洋戦争で花巻に疎開した高村光太郎が東京大空襲の直後、清六さんに防空壕を掘るよう勧め、清六さんは賢治の原稿と味噌などの食糧だけを防空壕に移したそうです。花巻空襲の際には賢治の生家も全焼し、清六さんは防空壕の入り口に火が入らないように味噌で封をして賢治の原稿を守りました。この話は、この日ここに住む清六さんの孫の和樹さんから林風舎に寄った時に聞きました。原稿以外で残っている賢治のセロもレコードも、皆友人のところにあったから助かったそうです。
賢治
詩碑のある場所の手前に、同心屋敷という江戸時代からの建物があります。南部曲家(人と馬が同居する屋敷)の一種です。元々は南部藩に仕える同心組の30戸の屋敷が並んでいたようですが、2軒のみ現存しています。同心屋敷から賢治詩碑のある元羅須地人協会跡地までは、賢治にまつわる碑や彫刻が並ぶ遊歩道になっていました。家業を継ぐことを期待されて盛岡高等農林に入った賢治ですが、西洋音楽が大好きで、東京までセロを習いに行きました。賢治より若くして亡くなったすぐ下の妹のトシは、東京の女子大に通い、バイオリンを弾きました。そのバイオリンも賢治のセロと一緒に賢治記念館に保存されています。
![イメージ 6]()
![イメージ 7]()
![イメージ 8]()
羅須地人協会のあった場所からは、北上川と、その手前に田畑がパノ
ラマのように広がっています。賢治が羅須地人協会と称して、自給生活をしながら農民を集めて農業科学や音楽合奏などを行なった建物は、元々、賢治の父が別荘として建てたものでした。賢治が水彩画にも描いた早池峰山の白い頂も見え、本当に眺めがよい場所ですが、羅須地人協会の玄関に掲げられた黒板に書かれた「下ノ畑ニ居マス」という畑は、かなり下の離れたところにあったことが分かります。決して体の丈夫ではなかった賢治にとっては、畑への往復も楽ではなかったと思われます。
![イメージ 9]()
![イメージ 10]()
賢治の詩碑は有名な「雨ニモマケズ」の一節ですが、肝心の「雨ニモマケズ」の言葉はありません。賢治の死後に、「雨ニモマケズ」が書かれた手帳がトランクから発見され、賢治を顕彰する石碑を建てるため、その詩全文では長いので、一番肝心なことを語っている後半部分を高村光太郎に書いてもらうことになりました。しかし、高村光太郎にその詩の内容を知らせようと手帳を書き写した人が間違ったために、碑文も3ヶ所間違ってしまいました。それを高村光太郎が後で知って憤り、後から行間に訂正した文字を3箇所掘ってあります。このことは、先日札幌のプラニスホールで開催されていた「宮沢賢治展」で知り、碑を見て確認しました。
ここを見た後、バス
で花巻駅方面に戻り、あと少し時間があったので賢治関係のグッズや喫茶のある林風舎に寄って、1月の演奏会のステージで対談させていただいた宮沢和樹さん(
札幌の宮沢賢治展も初日にいらっしゃいました)にご挨拶して色々お話も伺ってから、花巻駅前のホテル・グランシェール1階にある会食室にて午後7時より花巻演奏会実行委員会の第6回目(最終回)会議を開催しました。1時間ほどでしたが演奏会の報告・反省などをして、チケットの価格・販売方法のこと等、今後の参考になる有意義な会議になりました。会議の後は皆で会食。実行委員長の林住職には、5回目までの実行委員会や東北農民オケ練習会場の提供、チケットは200枚以上も売りさばいていただき、それを上回るカンパまでいただきました。本当に感謝です。林さんも音楽を愛し、賢治さんを愛しています。賢治さんがもっと長生きしていたら、きっと浄土真宗に戻るかクリスチャンになっていただろうと仰っていました(「宮沢賢治と浄土真宗」という著書もあり、キングレコードから歌のテープも出しています=早稲田大グリークラブ出身)
![イメージ 13]()
![イメージ 14]()
この後、有志で2次会に行きました。農家もいますが、獣医さんも、お医者さんもいて、話が盛り上がりました。
我々は、翌日の演奏会のため楽器を持参していたので、何か演奏をとリクエストされ、助乗氏がホルンを吹き、私もヴァイオリンでユーモレスク、チャルダーシュ、冬の2楽章、星めぐりの歌を弾きました。たまたま店にいたお客さんからも、拍手をいただきました (^_^)
この日の宿泊は翌日金星少年少女オーケストラ演奏会のある石鳥谷にも近いルートイン花巻で、実行委員会の連絡役になって下さった石鳥谷で自然農を営む藤根さんの奥さんに車
で送っていただきました。(つづく)
![イメージ 18]()
![イメージ 17]()
3月22日、朝7時札幌発函館行きのスーパー北斗に乗るためには、余市の
花巻駅14時20分到着。花巻市役所まで歩き、賢治没後80年記念イベントということで大変お世話になった、まちづくり賢治課の高橋課長と佐々木係長にご挨拶いたしました。佐々木さんは夜の実行委員会にも参加してくださいました。その後、農民オケ演奏会の記事を第1面いっぱい使って載せてくださった岩手日日新聞の千田さんにご挨拶に伺ったところ、3月1日付けで転勤されていてお会いできませんでした。それから、少し歩いて花巻一賑わっているマルカンデパートの展望食堂で休憩、例の特大ソフトクリーム(150円)をいただきました。
この後、夜の実行委員会まで少々時間があったので、昨年8月と本年1月の公演の時にも寄った花巻農業高校内にある羅須地人協会(賢治先生の家)が元々あった場所(宮沢賢治詩碑がある)まで歩くことにしました。途中、賢治の生家の前を通りましたた。旧街道沿いにあり、賢治の父が質屋を営んでいましたが、賢治の死後は弟の清六さんが商売替えをしてここに住みました。太平洋戦争で花巻に疎開した高村光太郎が東京大空襲の直後、清六さんに防空壕を掘るよう勧め、清六さんは賢治の原稿と味噌などの食糧だけを防空壕に移したそうです。花巻空襲の際には賢治の生家も全焼し、清六さんは防空壕の入り口に火が入らないように味噌で封をして賢治の原稿を守りました。この話は、この日ここに住む清六さんの孫の和樹さんから林風舎に寄った時に聞きました。原稿以外で残っている賢治のセロもレコードも、皆友人のところにあったから助かったそうです。
賢治
羅須地人協会のあった場所からは、北上川と、その手前に田畑がパノ
ここを見た後、バス
我々は、翌日の演奏会のため楽器を持参していたので、何か演奏をとリクエストされ、助乗氏がホルンを吹き、私もヴァイオリンでユーモレスク、チャルダーシュ、冬の2楽章、星めぐりの歌を弾きました。たまたま店にいたお客さんからも、拍手をいただきました (^_^)
この日の宿泊は翌日金星少年少女オーケストラ演奏会のある石鳥谷にも近いルートイン花巻で、実行委員会の連絡役になって下さった石鳥谷で自然農を営む藤根さんの奥さんに車