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岩手演奏旅行(3/22~3/25)その4 最終回

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岩手演奏旅行4日目(3月25日)は、盛岡で賢治の学生イメージ 1時代の足跡を辿りました。

 朝、駅前のホテルを出てすぐ、開運橋という昭和20年代の鉄の橋が北上川にかかっています。この北上川を下って、賢治の故郷花巻、北上、一関と、三陸海岸を除く岩手県内の主要な街があります。この橋をわたってまっすぐ行くと、盛岡城跡公園までたどり着きます。

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盛岡城跡、天守閣のあったところにあるのは、馬にまたがった南部利祥の銅像(日露戦争で戦死)の台座部分。太平洋戦争で金属資源として供出された。賢治は、ここの銅像を見ていたのですね。

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盛岡城の本丸と二の丸をつなぐ橋。天然の地形をうまく利用しているが、これほどの石垣を築くのは相当な技術と労力だったと思う。

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北上川と中津川の合流する付近の丘を削って築城した時に巨大な岩がいくつか露出し、石垣の代わりになっている。岩の隙間からケヤキの大木も生えている。

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盛岡城跡内にある桜山神社。右上に築城時に出てきた巨大な岩があり、烏帽子そっくりの形をしているので烏帽子岩と呼ばれ、盛岡藩の守り神・御神体となっている。
イメージ 30盛岡城のお堀と中津川の間にある「もりおか歴史文化館」、今回は1階の無料展示部分だけ見ました。
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 「さんさ踊り」と並ぶ盛岡の祭り「ちゃぐちゃぐ馬こ」は、100頭くらいの農耕馬に鈴をたくさんつけて行進します。賢治も、この祭りの様子を短歌に詠んでいます。
イメージ 32助さん、嬉々として法被(はっぴ)を羽織りました。
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盛岡銀行旧本店(中の橋支店~昨年8月まで営業していたが現在入館できない)。あの赤レンガの東京駅駅舎と同じ辰野金吾氏と盛岡出身の葛西萬司による設計。立派です。
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啄木・賢治青春館(旧第九十銀行本店)。啄木と賢治、岩手が生んだ天才文学者二人は、いずれも青春時代の10年ほどを盛岡市内で過ごした。賢治は、1909年から盛岡中学校(旧制)と盛岡高等農林(現岩手大農学部)に通い、研究生時代を含め1920年まで盛岡で暮らしたが、賢治より10年早く生まれた啄木は、1912年に26歳の若さで当時は不治の病とされた肺結核で亡くなった。賢治も肺結核で1933年に37歳で亡くなっている。
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啄木も賢治には共通点が色々ある。どちらも短歌を書いたが(賢治も心象スケッチと自称した詩や童話を書く以前は短歌をたくさん書いている)他にも共通することが多い。
その一つは教員をやったこと。賢治は花巻農学校の教師になり、教員を辞める直前は岩手国民高等学校(花巻農学校内に設置)の教師にもなった。啄木は、故郷の渋民村(現盛岡市)で小学校の代用教員をやっている。
もう一つは北海道に対するつながり(あこがれも?)の多さ。賢治は、農学校教員時代に、修学旅行などで北海道各地を何度も訪れている。啄木は、函館、札幌、釧路などに住んで新聞記者などの仕事をしながら暮らした。

賢治が亡くなった時には、岩手日報にはその死を悼む記事がたくさん載った。彼の文学が世間に広く知られるようになるのは、死後大分たってからのことだが、教師として、また農業指導者として、彼は多くの人に慕われていたことがわかる。
イメージ 34盛岡市内を駅の方に向かって歩く。官庁街にある古い公会堂。今でも同じように使われている。
イメージ 35岩手県庁。耐震工事が施されている。北海道庁は、まだとりかかってもいない!
イメージ 36裁判所前の、天然記念物「石割桜」。根の力で、巨大な岩が真っ二つに割れている。例年より3週間も早く東京では桜が満開になったが、盛岡はまだまだ。青森ではまだ雪景色。
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上川を泳ぐ4羽の白鳥(チャイコフスキー)
イメージ 3盛岡駅前の盛楼閣で盛岡名物(韓国料理なのかな?)冷麺を大盛り、辛味別でいただく。盛岡3大麺で、他にわんこ蕎麦、じゃじゃ麺というのもあるが、やっぱりこれが一番美味しいと思う。
ちなみに賢治は、農学校教師時代には花巻の「やぶ屋」でいつも決まって好物の海老天の入った天麩羅蕎麦にサイダーを注文。まだこの頃はベジタリアンではなかった。花巻では今でも「やぶ屋」で賢治の食べたセットをいただくことができる。
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岩手大学内にある旧盛岡高等農林時代の建物。奥が大正元年建築の旧本館(現農業教育資料館、昨年から今年春まで耐震工事につき休館中)、手前が宮沢賢治センターと同窓会の入っている百年記念館。左側には植物園が広がっている。


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賢治は、家業を継ぐべく県内の最高学府であった盛岡高等農林に入学したが、研究生時代を含め6年間農業を学び、文学や芸術、宗教(仏教とキリスト教)にも親しんだ。賢治は、最後まで家業を継ぐことはせず、農業技術と芸術・宗教を、当時の庶民であった農

民に伝えるために人生を捧げた。


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岩手大学創立100年を記念して設置された賢治さんの写真(ベートーベンを真似た姿)に基づいたモニュメント。岩手大教育学部の藁谷教授制作。賢治作品にたくさん出てくる安山岩で作られ、横に拡がる形は賢治精神が未来へとつながるイメージを表現しているとのこと。
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この風景は、賢治の通った大正時代とほとんど変わっていないでしょう。



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植物園内にある岩手大学ミュージアム

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床には岩手県~宮城県にかけての大きな航空写真。東日本大震災の大津波で浸水した部分が黄色く着色されていました。
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北東北~南北海道にかけては、縄文時代には日本の中地で多くの遺跡・出土品があります。

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盛岡高等農林時代の植物病理の標本教材。右はブドウの褐班病。おそらく賢治も、これを見て勉強したのでしょう。

農学部での様々な研究成果も展示されています。イメージ 17


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南部牛は元々陸上輸送に使われていましたが、今ではその子孫が肉牛の日本短角牛になっています。


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南部馬には、農耕用の愛馬型(あいのめづくり~右)と役用の錬棒型ねんぼうがた~左)がありましたが、明治以降頑強なヨーロッパの農耕馬と交配されて純潔種は絶滅しました。

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南部馬の骨格と、北海道にはいないニホンカモシカ(ウシ科)の剥製。
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ウシの体内から出てきた毛球と巨大な結石。

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新しく建設された動物病院。


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帰路はまず盛岡駅から新幹線です。ここでは秋田新幹線と、東北新幹線が連結して東京へ向かいます。左:こまち(秋田新幹線 E3系)+右:はやぶさ(東北新幹線 E5系)
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E5系はやぶさはロングノーズです。左は、盛岡止まりのはやて? E2系1000番台というやつでしょうか。

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帰りの列車は、先頭車両が3月16日に運行開始されたばかりの新型車両、秋田新幹線スーパーこまち(E6系)でした。

左:はやぶさ+右:スーパーこまち。ここで切り離されて、はやぶさは、2分遅れで発車しました。盛岡14:20発、札幌は21:57到着予定でしたが、この日は送電線の事故の影響でダイヤが乱れ、車を止めていた小樽築港に着いたのは23時過ぎ、余市に帰着したのは深夜0時頃でした。今冬は60数年振りという大雪で、JR北海道は今だかつてなく運休が相次いだだけでなく(そういえば最近「冬こそJR」というキャッチフレーズで宣伝しなくなった)、札幌~小樽間でエゾシカをはねて列車が何度も長時間止まりましたし(道東では日常茶飯事ですが)、列車や設備の故障での運休も相次ぎ、散々でした。

丸々4日間の旅でしたが、なかなかできない経験を色々させていただきました。これから農繁期になりこのような旅できなくなりま
すが、今年はまだまだ雪が深く、根雪がなくなるのは4月下旬になりそうです・・・

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